高木麻早オフィシャルサイト

高木麻早『レコードを語る Vol.15』LinkIcon

★9thシングル「夢のバラード」1977年6月発売



ビルボードで1位になった「I LIKE DREAMIN’」

ケニーノーラン作詞作曲のカバー曲

なかにし礼さんの日本語詞


デビュー以来、

忙しい日々に心身共に疲れきっていました。

ヤマハを離れ、しばらく休んだ後、

ご縁があって、

インターソング音楽出版という当時世界的な音楽出版で

お世話になることに。。。

フィリップスを親会社に持ち、

私たちがよく知っている諸外国のアーティストの名前が並んでいる音楽出版社

当時はビージーズのサタデーナイトフィーバー!!でフィーバーしていました。

フィーバーって懐かしい言葉(笑)

この日本支店というか、極東の本拠地が東京にありました。

当時、日本人では高木麻早とChar。。。

Charはここからデビューしたと思います。


レコード会社は同じで、当時の言い方でキャニオンでした。

渡辺有三さんの「麻早をシンガーに!」

この曲はインターソング音楽出版管理でした。

なかなか認めてはいただけない日本語詞もつけていただき、

高木麻早の歌として世の中に出ていきました。

アレンジは萩田光雄さん。

歌の途中で転調するのですが・・・

その前が2小節ハープのドラムフィルで、

いきなり歌からの転調で・・・汗・・・

麻早なら!って・・・

いえいえ。。ハマってしまい、なかなか難しかったです。。。

情けなくもなってました。。。


フランスで行われるミディム。。。

これはいろんな世界の音楽出版社がブースを持ち、

楽曲をいろんな国に紹介し、

リリースのオファーを受けるといったものでした。

高木麻早の「夢のバラード」も出してくださいました。

まさしく、インターソングだからしていただけたことでした。

結果は

香港とオーストラリアから買いがあったとのこと。

感激しました。

でも、

制作費やプロモートなどに掛かる費用と

これらの国でヒットした場合の売り上げを考えたときに、

すごくヒットしても収益は出ない

(ヒット枚数がそれほどでもない)ということで、

実現はせず。。。

まさしく「夢のバラード」になりました。


それにしても、

私にどれだけの力と励ましになったかは計り知れません。


ちなみに、

コーラスは、

瀬尾一三、梅垣達志、緒形道子、萩田光雄と書いてあります。

びっくり〜!!








高木麻早『レコードを語る Vol.14』

★8thシングル「愛のシルエット」1977年3月25日発売



アルバム「シルエット」から「あいつってさ」に続いてのリリース。

岡田冨美子さん作詞、伊東かおるさん作曲。

福井 崚氏&佐藤準氏のアレンジがまた最高で、名曲です!

お気に入りソングです。

ジャケット写真は都内のスタジオでした。

そうそう懐かしい〜!

このヘアースタイルは当時、

ヴィダルサスーンで修行なさり、

日本にお帰りになったばかりの川島文夫さんのサスーンカットです。

みなさま覚えていらっしゃるかな?

アメリカの女子フィギュア選手のジャネット・リンさん。

当時、話題になった彼女のカットがサスーンカットでしたよ。

にしても、懐かしい〜!

さてさて・・・

シングルくらい力のある作品を入れたアルバム作りをして下さっていた

渡辺有三さん。

ファーストアルバム「高木麻早」は

「ひとりぼっちの部屋」と「想い出が多すぎて」

「こころの扉」からは「不思議な気分」と「すりガラス」

40年も前にこんな音楽作りをして頂けて・・・

本当に恵まれていて、幸せ者だったと痛感しています。

当時、私は毎日のスケジュールをこなすのが必死で、

心が見えなくなりそうな時もありましたが、

時々、有三さんのご自宅でご家族と一緒に過ごさせて頂き、

娘のように、妹のようにして頂いたことを、またまた思い出しました(涙・・)

ただ。。。

デビューしてスケジュールをこなす毎日の中で・・・

高木麻早も20代半ばになり、いろんなことを考え出していました。








高木麻早『レコードを語る Vol.13』

★7thシングル「あいつってさ」1976年11月25日発売



ジャケット写真は砧公園

前に書いたかと思いますが、

リリース時が11月なら、写真撮影は・・まぁ・・夏・・・

今ほど暑くなかったのでしょうね(笑)

水分補給に気を使った記憶がありません。


「あいつってさ」はアルバム「シルエット」と同時発売。

伊藤かおるさんの作曲で、岡田冨美子さんと高木麻早が共作で詞。

福井崚さん編曲

40年前の作品と思えないくらいセンスの良い作品です。

当時はちょっとおしゃれなサウンドって感じでした。

そうです。

忘れてはいけない方!

キャニオンのミキサー黒田勝也氏も、

デビュー以来、高木麻早サウンドを支えてくださった大事な方です。


岡田さんの描いたこの女性、大人にはなっていますが、

根底は「好きだと言えないの」の女性像だと私は思います。

今の女性から見たら、

こんな男はやめちゃえ〜!どこが良いの?!って

感じなんでしょうけど(笑)

私は石川達三さんの描く女性が好きだったので、

高木麻早に書いてくださる岡田さんの詞は大好きでした。


30年ぶりのホールコンサートだった昨年5月5日

渋谷大和田さくらホール、

この「あいつってさ」で登場しました。








高木麻早『レコードを語る Vol.12』

★5thアルバム「Silhouette」1976年11月発売



ベストアルバムであるライブ盤を出して、一つの区切りをつけて・・

という考えが、渡辺有三さんにあったのでしょう。

デビュー時からの考えであった「麻早をシンガーに」「アルバムシンガーに」

この方向へいよいよ舵が取られました。


この「シルエット」の帯にも書かれてありました。

「ライブ盤以来、注目されていた麻早サウンドが帰ってきた。

シングル「あいつってさ」にも感じる、確かなシンガーへのステップです。」



その方向への第1弾のアルバム。

作品こそまだ高木麻早が多いのですが、

アレンジは萩田光雄さんではなく、

敢えて・・言葉で表現するならば・・・

それまでの高木麻早をかばうものが一切ない音の世界で、どう歌うのか・・

麻早なら!と思ってくださっての方向性が始まった訳です。

いまの私は思います・・すごいこと・・・(汗)です。

いろんな意味での冒険です。トライです。

レコード会社的に言っても・・・


でも、

その頃の私は怖いとか、不安とか全く感じることもなく、

動じることもなく、淡々としていたように思います。

それは、有三さんへの全面的な信頼からでしょう。

「誰に教えてもらった訳じゃないのに、麻早には歌ごころがある」

有三さんのこの言葉は何の基礎もない私が、いろんなことにためらわず、

考えず、トライ出来た・・・

まさしく「魔法の言葉」でした。


シルエットには、

今は亡き同期のNSP天野滋さんが笛木智子というペンネームで

作詞してくださったり、

「ラブ・イズ・オーバー」の伊東かおるさんも作品を高木麻早に提供!

当時、CharのサポートメンバーだったJerryも曲を書いてくださいました。

また、

ファーストアルバムからのお付き合いの作詞家岡田冨美子さんが

「好きだと言えないの」の高木麻早を・・

「愛のシルエット」「あいつってさ」で随分大人にしてくださいました(笑)



このシルエットから高木麻早の次なるステップが始まりました。








高木麻早『レコードを語る Vol.11』

★LIVEアルバム「高木麻早LIVE」1976年2月発売



実は・・ライブ盤を出すという話は当初ありませんでした。

営業からベストヒット盤をリリースしてほしいという要望が出て、

ニューミュージック界でベストヒット・・・そんな時代ではないし、

普通にリリースするのは・・・と渡辺有三さんが考えた結論が

ライブ盤でベストヒット!!

そのために、東京郵便貯金ホール、名古屋市民会館、

大阪厚生年金ホールでコンサートが組まれました。

さてさて・・・

知られざるエピソードです。

あまりの忙しさにすでに体は限界を超えていたのですが、

打ち合わせ、リハ、エピキュラスでの通し稽古などが加わり、

ついにライブ盤録音のためのコンサートの前日、疲労から来る扁桃腺炎になり、

高熱、喉の痛み、寒気などで最悪、極悪の状態になりました。

病院に行くにも時間がない。。。

夜もかなり遅くに連れて行かれた先は五反田にあった「遠藤耳鼻咽喉科」

「歌手の救世主」と言われたおじいちゃん先生。

出ない声をとにかく出す!と言うことで、すがる思いでいた私の腕に2本、

魔法の注射を打って下さったんです。

それが本当に出た!からあのライブ盤が無事リリースされた訳です。

診察室で、とてつもない責任感とプレッシャーに押し潰されそうで、

不安いっぱいの私に、おじいちゃん先生は、こうおっしゃってくださいました。

「あなたは紅白に出られる声帯を持っているよ」

そのときの、この一言が、その後の高木麻早を支えていました。


20年のお休みのあと、歌い出すことを決めた高木麻早に・・・

またこの一言が、背中を押し、勇気を与えてくれました。


ニューミュージック界の淡谷のり子さん目指して!がんばります!!








高木麻早『レコードを語る Vol.10』

★6thシングル「愛は貴方のぬくもり」1976年1月25日発売



プロの作詞作曲家による初シングルです。

シングルとして発売の初シングルです。

作詞は杉山政美さん、作曲は梅垣達志さんです。

元ヤマハディレクターの梅垣さんが、

その昔、グリーティング梅垣という名前でシンガーソングライターとして

デビューなさったことも、

ポプコンに作品応募なさったことがあることも存知上げていましたから、

なぜ?!って抵抗はありませんでしたが、

作品の質の高さに当時の私は、

シンガーとしての力を試される・・・そんな緊張はありました。

倫典さんと梅垣さんとのアコースティックライブで

40年くらい振りに歌いましたが、

変拍子で音域が広くて、難しいですが、とてもおしゃれな作品です。

当時、売れなかったのは難しくてなかなか気楽に歌って頂けなかったから

ですね〜(笑)

でも、多分・・・

売ろうというより、こういう質の高いシングルを出しておくことに、

この時期意味があった・・必要だったのでしょう。

しかし、今聴いても良い歌です。

杉山政美さんの詞の世界も深いですね・・・

「もしも言葉だけで愛が語れるなら、

         何をおしんで無口になんかなれるでしょうか」

う〜む・・・うん・・・なるほど・・・








高木麻早『レコードを語る Vol.9』

★5thシングル「すりガラス」1975年8月25日発売



高木麻早の歌の中で、珍しく「語っている」歌詞でマイナーなメロディーです。

高校生のとき、

こんな感じのことをノートに書いていたような気がします。

みんな何かを考えていた時代・・・でしょうか?

タイトルの「すりガラス」は、

向こうが見えそうで見えない・・・という意味で付けました。

オリコンによりますと、高木麻早ヒットソングのひとつになっています。

へえ〜〜って思ったりしました(笑)

アレンジの裏話をひとつ・・・

実は、イントロのギターはスタジオミュージシャンによるもので

出来ていました。

ところが、

歌入れの日に、当時のヤマハのディレクターの萩原暁さんが

突然閃いたらしく、

「これ、ちょっと変えようよ〜」と、ご自分でギターを弾いて、

「霧のカレリア」スプートニクスサウンドに仕上げ直しました。

渡辺有三さんも「良いじゃない!!」

このサウンドで心に沁みる、いわゆる「泣ける」音になりました。

ライブ後のアンケートの歌ってほしい曲に「すりガラス」と、

よく書かれてあります。

そうそう、ジャケット写真は・・・確か・・・

夢の島???あたりだったような???

何か・・・臭っていたような・・・そんな記憶が・・・








高木麻早『レコードを語る Vol.8』

★4thアルバム「こころの扉」1975年7月発売



「不思議な気分」と「すりガラス」

2枚のシングルが収録されているアルバムです。


「二十才」は成人式

「そうして今」は結婚式

「恋のグリーティングカード」はお誕生日


それで、私自身が成人式のとき、

福岡の確か・・・

九電体育館での成人式式典のアトラクションに出演して、

「二十才」を歌ったことを覚えています。


「そうして今」は結婚式用に作って、

何回か歌う機会に恵まれました。

新郎新婦は、必ずお泣きになりました。

でも、私は。。姫のときは歌えない・・・と思います・・・


また、

「恋のグリーティングカード」の作詞は酒井チエさん。

「スター千一夜」って番組を覚えていらっしゃるでしょうか?

あった!あった!とお思いになったんではないでしょうか?

懐かしい〜〜でしょ?!

そして、

旭化成がスポンサーだったこと・・覚えていらっしゃいますか?

実は・・高木麻早が、

旭化成のCMのひとつ「ハマナカ手芸糸」を作曲して

歌っていた時期があるのです。

へえ〜〜ですかぁ〜?!

そのCMの作詞をなさったのが酒井チエさん、詩人の方でした。

そのチエさんが、高木麻早を指名して下さり、初のCMソング!

しかも、子供の頃から見ていた番組で、光栄だったことを覚えています。

そのチエさんにお願いして作って頂いたのが、

「恋のグリーティングカード」です。

そんなことを思い出しました。

酒井チエさん・・どうしていらっしゃるんでしょう・・・?


ジャケット写真・・確か・・・

福生のあたりで撮ったような・・気がしています。


このアルバムもまだ、洋楽で扱われていた時代です。









高木麻早『レコードを語る Vol.7』

★4thシングル「不思議な気分」1975年4月25日発売



作曲小林南さん、作詞高木麻早

この曲が好き!!ってリクエスト下さる方も多い作品です。

作品制作時間など特別取れなかった時代ですね。。

この頃は大げさでなく、分刻みのアイドルのような毎日で、

あまりにも忙しくて、悲しいことに・・

レコーディングはどこでしたかとか、

どこでジャケット写真を撮ったのかとか・・全く覚えていません。。


ただ、

当時、ある音楽評論家の方が、

「この歌の主張やポリシーはああだこうだという作品が多い中において、

そんなことなど関係のない、穏やかで、爽やかな風を感じるこの歌が

私は一番好きです。」

「私の推薦する1枚」という記事に書いて下さり、

すごく嬉しかったことを覚えています。


また、余談ですが、

小林南さん!

昨年5月5日さくらホールでのコンサートにいらして下さり、

「不思議な気分」を歌って下さってとても嬉しかったと、

ご丁寧なお手紙を下さいました。

ラジオでこのコンサートをお知りになり、チケットをご購入なさって、

足をお運び下さったとの事。。。

私は全く知らなかったので、このお気持ちに本当に感謝感激致しました!

南さん、これからも大事に歌わせて頂きます。







高木麻早『レコードを語る Vol.6』

★3rdアルバム「TAKE A TEN MASA」1974年9月発売



「麻早」に続いてすぐ発売されていたんですね〜

レコーディングのための渡米は、

1974年4月15日〜29日の2週間でした。

よくスケジュールが取れたものです。

今から40年前のまだ、1ドル固定で300円だった頃

(ずっと360円でしたよね・・笑・・)

アメリカはテレビの、そのまた向こうの世界でした。

夢のハワイって言葉があり、外国旅行なんてとてつもない時代でした。

そんな頃にロスアンジェルスはハリウッドでのレコーディング!!

「なぜアメリカまで来て、レコーディングするのか?」と

参加ミュージシャンに聞かれた時代。

アメリカ人から見たら、

日本の音楽は???・・???な時代だったんでしょう。

キャニオンのディレクターが渡辺有三氏であったこと、

音楽普及に力を入れていた故川上源一理事長のヤマハ音楽振興会に

身をおいていたこと、

ご褒美という意味合いもあったこと、

高木麻早をシンガーにという気持ちもあったこと、

当時キャニオンと並んで

ビデオにいち早く参入していたポニーという会社があり、

ミュージシャンをコーディネート出来るトム佐伯氏がロス在住だったこと、

などなど条件は揃っていたからこその実現だったと思います。

だから、

私はちゃんと向こうでユニオンに入ってのレコーディングでした。

つまり、

ちゃんとお仕事したってことですから、私も確か、報酬を頂きました(笑)

海外録音も今でこそという感はありますが、

ワーナーブラザーススタジオは、スタジオの中にバスケットゴールがあり、

それだけでもうびっくり〜!

ミキサーの日系3世のボビーさんが日産のZに乗っていらして、いたく感激〜!

ボビーさんは、歌録りの時に、いろんなアイディアを出しながら、

曲によって、声の録り方を変えるんです。

高木麻早の良いところをすかさず把握して・・・

ミックスダウンは、良すぎて!もう本当にダウン寸前でした。

アレンジは見当もつかないということで、

スタジオで実際の音を聴いてから書くと萩田さん。。。

これもすごい!

リズム隊から私は一緒に歌って「こんな歌です」で録る方式は日本と同じで〜

萩田さんはこの時点でアレンジスタート!

でも、実は譜面に弱い、読めないミュージシャンもいらして、

日本のスタジオミュージシャンでは考えられないことでびっくり。。。

ところが、

まるで萩田さんが書いたかのようなメロディーがアドリブでホイホイ!!

みんなこれに一番、驚きました。

アメリカを感じました。

まだ日本ではミュージシャンクレジットなどない時代・・

萩田さんが作曲して下さった「恋時計」

ドラムのHAL BLAINE氏に「Be my babyみたいに叩いてほしい」と

萩田さんお願いしたら、

「それは僕がやったんだあ〜」

また、

カーペンターズで大ヒットしていたアルバム「NOW AND THEN」を

例に出したら、

「あれも僕がやったんだよ〜」

もうみんな「ひえ〜〜〜!!」

その後、ジョンデンバー日本公演にサポートでいらして、

「MASAに会いたい」とおっしゃって下さったのに、

実現出来なかったことが、本当に悔しい〜・・・

ジョンデンバー氏もアルバム「高木麻早」を聴いて

同じ気持ちでいらして下さったようでした。

あ〜〜本当に残念・・・

映画「プレスリーオンステージ」で見たギターのJAMES BURTON氏

格好良い〜!

ギターのフレーズはすべてアドリブです。

ベースもキーボードもこれがまたすごい方々〜!!

だから、

私がリズム隊とのレコーディング開始を待っているときに、

ちょっと口ずさんだロバータフラックの「やさしく歌って」

マイクから聴いてて・・キーボードが入り、ベース、ギター、ドラム・・・

いつの間にか、みんなのバックで歌っていました。

これぞ「音楽に国境はない!!」

感激感動で、涙が出そうでした。

コーラスもまたアニタ・カーシンガーズという面々・・・・

ストリングスに日本からの留学生の方が入っていて、

「内緒にしてください」って懇願あり(笑)

テレビの取材もありました。確か・・菊放送??とか何とか・・・

とにかく、あの時代に、

信じられないくらいの本当に素晴らしい経験をさせて頂けたことに

心から感謝しています。

本物は人間も本物!

最後にもうすこし裏話・・・

当時めちゃめちゃなスケジュールの中、

「時間がないから作詞は向こうで〜」と言うことで、

「ビートセブン」はレコーディングと同時進行で作った、

いわばアメリカ生まれの詞。

ジャケット写真はキャロルキングを撮ったTOMさん。

日本の美を「麻呂」と表現して、

良い顔をすると「MARO〜MARO〜」と叫んでいました(笑)

撮影現場は、パラマウント映画社。広大でした!!

確か、「トラ、トラ、トラ」の撮影現場を見たような・・・

しかし・・・

ディスニーランドとリッキーネルソンライブと少しのお散歩以外は・・・

ホテルの窓から見るアメリカが一番多かった麻早さん・・(>_<)

スタッフはいろんなアメリカを知ったようだけど〜〜ぉ・・・(^_^;)

まだまだお話したいことはありますが、長くなったのでこの辺で・・・

このアルバム、私のお気に入りです!







高木麻早『レコードを語る Vol.5』

★2ndアルバム「麻早」1974年5月発売



モノクロのジャケット。

これはデビュー前、高校生の高木麻早の写真。

「アグネスチャンみたい〜」って言われた写真。

なぜこれを使用したのか、

どういう経緯でこの写真を??

私にはわかりません(笑)

ギターも私のものじゃないんです(笑)

ヤマハの名古屋支店で・・何かで撮ったような・・・気もしています。。。

1974年の5月リリース・・・撮影の時間がなかったのかな?

結果、「コーラが少し」がシングルになりましたが、

有三さんは、どれだと考えていらしたのか・・・と、ふと思ったりしました。

「花ふぶき」無い物ねだりで、この曲は特にお気に入りです。

「明日に向かって」この頃セットリストには必ず入っていました。

「いもうと」のアレンジは古い教室に残っている足踏みオルガンと決めて探し、

ハネケンさんが演奏下さいましたが、

音の立ち上がりが遅くて、かなり苦労なさっていました(笑)

「あなたに捧げる私の歌」これ・・今度・・歌ってみようかなぁ・・







高木麻早『レコードを語る Vol.4』

★3rdシングル「コーラが少し」1974年3月25日発売



高木麻早が書いた作品だと思っていらっしゃる方が

ほとんどではないでしょうか?

実は、私が見つけた作品なんです。

出会った経緯をお話します。

地元名古屋にある中部日本放送(CBC)の佐野喜多夫ディレクターから

仕事でおめに掛かった際、

「麻早ちゃん、聞いてみる?」という事で、録音テープをお借りしました。

それには山名敏晴さんという名古屋在住のシンガーソングライターの方の

オリジナル作品が何曲か入っていました。

泉谷しげるさん風の作品ばかりで、正直、う〜む?と聴いていましたが、

なぜ佐野さんが聞いてみる?とおっしゃったか・・わかりました。

「コーラが少し」

私は「これが好き!歌いたい!!」とすぐ思いました。

早速、佐野ディレクターにお願いして、山名敏晴さんに伺って頂き、

承諾を頂けました。

次はレコーディングの予定があった2ndアルバム「麻早」に

入れて頂けないか?と、梅垣さんや有三さんにお願いしました。

アルバムなら・・というリアクションでしたが、

私はとても嬉しかったことをはっきり覚えています。

「麻早」を録り終えて、しばらく時間があり・・・

さあ、この中からシングルを決めようという時になり、

作品のすべてを聴き終わったとき、

お二人は言いました。

「コーラが少し、良いね〜!!」

地味な曲調でしたから、ヒットするかどうか・・

そんな感じもあった時代だったのでしょう。

「コーラが少し」がリリースされてオリコンに最初に掲載される頃、

私たちはレコーディングのためにロスアンジェルスのスタジオにいましたが、

初登場何位なのか?とスタッフは気にしていたらしく、

国際電話をして、キャニオンに聞いて安堵していたことを覚えています。


こうして高木麻早が見つけた歌は世の中に出て行きました。

「コーラが少し」は高木麻早が書いた作品と思って頂いている・・・

こんな最高の賛美を頂けて、私は心から・・心から・・喜んでいます。



追伸

この文章を書き終えたら、すごいタイミングで、

当時キャニオンの名古屋営業所にいらした寺崎文彦さんから連絡あり!

そうそう・・ピンク色のポニーカー乗りましたね〜(笑)

懐かしい〜

いろんなご縁で繋がりました。

寺崎さ〜ん!来年はキャニオンOB会に出ますぅ〜!!







高木麻早『レコードを語る Vol.3』

★追伸



今でこそ当たり前ですが、

当時、アルバムを出すということは、

シングルがヒットしていることが条件の時代で、

ヒット曲を集めてベストヒットとしてのアルバム(LPと言っていました)を

出すのが普通でした。売れないからです。


でも、当時キャニオンのプロデューサーだった故渡邉有三氏は、

ヤマハのディレクターだった梅垣達志氏と

「高木麻早は洋楽のように、アルバムシンガーにする」

という方向性を打ち出して下さり、

新人でデビューして1ヶ月後にアルバム発売という

当時としては前代未聞のリリースでした。

ですから、シングルありきではなく、アルバムを聴いて頂く最大の目的で、

1stアルバム「高木麻早」は「想い出が多すぎて」をフューチャーしたと

言うことです。

だから、当然、

最初から「想い出が多すぎて」をシングルにするとは

考えていなかったようです。

その後、シングルはまず

アルバムのレコーディングが終わってから決める方向(例えば、コーラが少し)

ないしは、アルバムとシングルは別に考えるという方向になって行きました。


余談ですが、

井上陽水さんのアルバム「氷の世界」確か100万枚!

この時代にすごい!なんてもんじゃなかった!ってことです。


さて、

高木麻早をシンガーとして認めて下さった渡邉有三氏とは、

今年1月にお亡くなりになるまでず〜っと家族ぐるみで

お付き合いさせて頂いていました。

また、

梅垣達志氏には初アコースティックライブをサポートして頂くことになりました。

デビューから40年経って・・・

冗談大好きだった有三さんは、あの笑顔で

「へ〜ぇ!麻早ちゃん、梅垣さんとやるのぉ〜?

じゃ僕はベースやろうかな〜」って・・言ってるかな。





高木麻早『レコードを語る Vol.3』

★ 2ndシングル「想い出が多すぎて」1974年1月10日発売



これは当初シングルになる予定はありませんでした。

ところが、当時のキャニオンレコード営業から「シングルカットしてほしい」

という強い要望でリリースすることに急遽なりました。

どうやら全国のレコード店からの要望だったようです。

それで、ジャケット写真は新宿御苑、今だから言える話ですが、

ここでの撮影は禁止(今もだったら内緒に・・笑・・)

笑って写っていますが、ドキドキで警備の方が歩いて来るたびに中止。。。

結構この場所での撮影はあったらしく、見回りがあったんです。

いなくなると撮影、「来た!」でみんな隠れるって繰り返し(笑)

なぜ隠れるか?って?

だって1月リリースで冬の格好していますが、

撮影している時はまだ残暑の頃・・・

そんな格好していたら撮影以外には考えられない(笑)


高木麻早唯一の名曲でしょう。


当時なかなかレコード会社として苦戦していたキャニオンの営業会議で

「高木麻早にキャニオンの明日が見える」とおっしゃって頂いたと聞き、感激!

20歳の小娘の私でしたが「この方たちのためにも頑張ろう」って思いました。

一緒にプロモートして歩いたあの頃の営業マンの方たちに

おめに掛かりたいものです。


ちなみにキャニオンレコードは現在はポニーキャニオンです。

キャニオンレコードとビデオの会社ポニーがあり、その後二社が一緒になって

ポニーキャニオンになりました。

そうそう・・

キャニオンレコードはこの頃、浜松町世界貿易センタービルの

ワンフロアーが会社でした。

所属する財団法人ヤマハ音楽振興会も恵比寿駅前のスヤマビルの中に

入っていました。

そんなところから始まったんです。







高木麻早『レコードを語る Vol.2』

★1stアルバム「高木麻早」1973年10月10日発売



このアルバムが出来上がったとき、感激しました。

絵のように部屋に飾っておけるジャケット。

都内の空き家で、真っ白な、

まるでアメリカにでもあるような一軒家で撮影しました。

TシャツはKENZO 懐かしい〜

手首にしているブレスレットは、

デビューのきっかけになった第5回ポプコン本選会で最優秀歌唱賞を頂き、

それでインドネシア音楽祭ゲスト出演という機会を与えて頂いて、

ジャカルタに行った際、頂いた賞金で記念にと、買い求めたものです。


「想い出が多すぎて」をフューチャーしたアルバム。

アレンジの素晴らしさに感激!ほとんど萩田光雄氏。

とても気持ち良く歌えてほとんど一発オッケーだったと記憶しています。

ただ、「想い出が多すぎて」は16ビート。当時としては斬新すぎ。

ノリが難しくて、戸惑ったことを覚えています。

「愛することを知ったから」の間奏に

「想い出が多すぎて」のメロディーを使っていること・・

お気づきになった方、いらっしゃいますか?

萩田氏の裏技です!

「シーハイル」は萩田氏が「海にはいるってことかと思った」って話は

本当だったでしょうか(笑)

ストリングスの駆け下りるフレーズ・・確かに波の感じが・・・

しないでもないです(笑)

「風が吹いてくれば」は福井崚氏のアレンジ。

ストリングスを中心に、映画音楽みたいで、壮大で、

私の心には確かに風が吹いていました。

でも、ストリングスで歌うことはとても難しかったです。

また、ピアノの今は亡き羽田健太郎氏はレコーディングのたびに、

ご自身の面白いお話をして下さり、とても楽しかったです。

このアルバムでこの年のオリコン新人賞をフィンガー5と一緒に頂きました。

その年一番売れた新人ひとりに与えられる賞ですから、高木麻早は異例です。

それだけこの「高木麻早」が多くの方からご支持頂けた結果で、

この意味と価値の重さはその当時より今の方がよくわかります。

みなさまの思い出をまた、お聞かせください。







高木麻早『レコードを語る Vol.1』

★1stシングル「ひとりぼっちの部屋」1973年9月10日発売



デビュー作

この年はオイルショック。

トイレットペーパー買い占めに殺到する人たちのニュースに、

これからどうなるんだろう・・・と怖かった記憶。

自主規制と言うことだったのか、

見開き(ダブル)ジャケットがシングルになることに。

「ひとりぼっちの部屋」とファーストアルバム「高木麻早」の初版盤が、

なんと最後の見開きジャケットになると聞かされました。

この時代はスタイリストもいなくて、自前の衣装を名古屋からいっぱい持参。

みんながイメージしていたTシャツにジーパンは持っていなくて、

宣伝マンとディレクター渡邉有三氏が急いで買いに行って、

この写真になりました。

裏の衣装は自前です。

このジャケット、私は好きです。


萩田光雄氏アレンジャーデビュー作







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